あるとかないとか

もっぱらホットコーヒーの季節になった。

コーヒーは好きなのは好きだが夏場でもホットを飲むほど通でもない。(アイスコーヒーは日本発祥だと聞いたことがあるが定かではない)

いつからこんなにも普及したのかいささか謎ではあるがコンビニコーヒーが主流になりつつある現状だ。缶コーヒーは嫌だが喫茶店にはいって一息つくほどの時間はない、という効率性を求めた結果できた実に日本人らしく素晴らしい機械だ。実際に味も喫茶店と遜色ないと思う(私はお吸い物とお湯の味の違いが分からないぐらいには味覚音痴だ)

つい先日のことだが、車内に飲み終わった某コンビニのインスタントコーヒーの飲みガラが窓際のドリンクホルダーに凛々しく所在無さげに立っていた。朝方だったせいでもあるし視力が悪くなってきたせいでもあるのだが、私は飲み口の紅に気付くのが遅れた。

弱々しくではあったがソレはソコに張り付いていた。バケツの水に落ちた一滴の血のようにすぐに溶けて無くなってしまう、そんな危うさの中にその紅はあった。

朝の寒さも相まってか、「ソコに誰かが存在していた」という事実が何故か心を軽くし、カーテンから漏れる陽の光に暖められた床のようにポカポカと冷えた心をあたためた。

しかし、「今はもう誰もいない」という事実があるのも確かだった。実際にぬくもった心を冷やすには十分すぎる事実と弱々しい紅だった。

このような「ある・ない」が同時に襲ってくる感覚は日常に溢れていると思う。

朝起きて鼻をつく鍋の匂いに、友人と騒いでいた昨日があり、今はいないという現実を思うだろう。

久しぶりに乗った自転車に、何度も転んで乗れるようになった過去があり、今はただ乗らなくなった現在を思い膝の傷跡を愛でるだろう。

ふらりと立ち寄った古本屋で、表紙の傷にその本を読んでいた頃の娘の世界が生まれ、表紙の傷の深さに今は亡き娘の世界を見るのだろう。

様々な思いや出来事、モノ、現実があり、日に日に思い出や、神話、過去となって美化されていく。しかもそれは月日が経てば経つほどに美しく、洗練され、尊いものになる。(飲み屋の酔っ払いの昔話を除く)

冷えた指先を温めるため110円で缶コーヒーを買った。